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コロナ禍をとおして思ってることメモ

 コロナが明けたといわれてもうすぐ一年が経とうとしている。そんな中、コロナ禍で引き起こされた社会的なジレンマや諸課題は解決されないまま人目につかない社会の隅で横たわっている。実際ここ半年くらいはコロナという言葉を見聞きすること自体が少なくなり、SNSでも家庭でも職場でもコロナにかんする会話をすることがなくなった。でも、そのおかげでひとりでじっくり考える時間ができた。だからちょっと言葉にできる範囲でメモしておこうと思う。

 わたしはコロナ禍における感染対策は以下のように段階的に進行したと思っている。
➀感染が流行して社会全体が困らないようにひとりひとりが我慢する
②感染したら困る一部の人々のために社会全体が我慢する
③感染したら困る一部の人々だけが感染を気をつける(←イマココ)

 そして、わたしが問題意識を強くもっているのは、この②のような状況にたいして、③以外にはどのようなアプローチが可能だったのか、あるいは、この状況から色んなひとが安心できる集まりをどのようにつくれるのか、みたいなことだ。

 コロナ禍をとおしてわたしが痛感したのは、フジロックや各地のブロックパーティー、橋の下世界音楽祭のような、かつての自分が誰にとっても最高なんだと思っていた場所が、実は一部の人々を排除することなしには成立しないような設計で運営されていたという現実だった。要は社会的に強者である立場にあぐらをかいていて、自分にはバリアフリーみたいな感覚が全く欠けていたのだ。そのことを思い知らされた。わたしはつい最近まで画像の代替テキスト(alt属性)の存在すら知らなかったのだ。

 今、各地のイベントやフェスなどの「現場」は、そこに参加することができる側であることの特権性を強調しながら、その場にいなかった人(近隣住民含め)が口を挟むことを一方的に非難する方向になっている気がする。はたしてそれは健全なことなのだろうか。

 あるいは、社会と音楽というトピックで考えるとき、音を出す行為につきまとう「騒音問題」について、街中のデモについて、ちんどん屋について、どう自分の活動に結びつけられるだろうか。

 なにかを働きかけてみたい。でも何も思いつかないまま、今日も部屋からオートチューンをかけている(近所の苦情に怯えながら)。

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