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伊藤精英『音が描く日常風景: 振動知覚的自己がもたらすもの』を読んだ

https://www.kanekoshobo.co.jp/book/b552680.html

 本書は、アメリカの心理学者、ジェームズ・ギブソンが生み出した生態心理学のアイデアを音の分野に応用、発展させる試みで、表紙からは読み取れないが全盲を経験した著者による実体験が本書の軸のひとつになっている。

 かといって、本書は全盲者の特殊能力を並べ立てるといった類のものでは決してない。ここで重要になるのが、生態心理学の発想である。

情報とは、知覚システムが人の周囲すなわち環境を構成している場所、対象物、そして事象を特定するためにエネルギー場(Gibson, 1979 古崎・古崎・辻・村瀬訳、1985のいうエネルギーの海)の中からピックアップする(pick up 取り出す)ことができる「もの」である。(中略)環境と知覚者自身(自己)を同時に知覚しうることからすると、情報は場所、物質、事象のみならず自己を特定するために知覚システムが利用可能なものである。

本書 p.20~21

 この情報のピックアップという観点から、我々がいかに振動(ここで音と書かなかったのには理由がある)から情報を適切に取り出して日々を送っているか。そこへの着目が本書の大きな特徴のひとつだ。

 そして、本書でもうひとつ大きなキーワードとしてあげられるのが、「振動知覚的自己」という概念だ。

聴覚的自己を敷衍すると、振動知覚的自己になる。その基軸は体幹である。いうまでもなく、音は固体。気体・液体など媒質の振動のうち、耳の中で「聴こえ」という知覚的現象を引き起こす波である。ゆえに、音を手がかりとする聴覚的自己は振動知覚的自己の一部分であるといえる。

 日常環境には聴覚受容細胞レベルでは感受できない振動も多く含まれている。低周波あるいは超高周波である。

本書 p.15~16

 ここまでの説明を簡単にまとめると、日常の中で発生する振動から、ひとは何をピックアップすることで場所や物質、事象、さらには自己を特定しているのか。これが本書に通底するテーマである。

 実際、個々の研究事例を読んでみると、道路の歩行から容器に液体を注ぐ、鶏のから揚げの調理、茶道、雨、など取り上げるトピックはどれも身近に経験があるとともに興味深いものになっていた。しかし、欲を言えばもっと個々の事例ごとに追加の研究や著者の論考がほしかった感もある。特に、「6.残された問題—音響知覚から振動知覚への拡張」で示された音情報だけによらない「振動知覚的自己」の可能性についての追求は、もっと本書の中でされてほしかった。個々の実験についても、全盲者あるいは全盲者と晴眼者の比較に偏っていたため、結果的に全盲者の知覚能力のみが注目されるかたちになっていた。晴眼者のみを対象に条件づけがされた実験についても読んでみたかったと思う。一読者の欲張りではあるが、今後の新刊にも大きな期待を寄せたい。

 また、本書では例えば以下にあげるように「自己」という言葉が頻出しており、重要な概念であることは明らかだ。

今、私が研究しているテーマの中心は、周囲の音によってどのように環境を知覚できるのか、環境の知覚における聴覚と振動知覚の関係、そして、そもそも自己とは何かである。

本書 p.16~17

 しかし、本書の中で「自己とは何か」への著者の考えにはあえてページが割かれておらず、この点についても少しもったいない気がした。

 だが、それをさしおいても「0章 新しい自己のはじまり」での著者の体験談や「Ⅴ章 音が描く風景がわかる」での降雨を取り上げた一連の記述は自己について、そして知覚について大変な示唆を与えてくれる素晴らしいものだった。例えば、159頁の「雨音が激しくなると、目の見えない人にとっては晴眼者が霧や靄の中にいるのと同じ状況になる。」という喩えを用いた指摘にはハッとさせられた。

 ここで自分の思考は急速に中谷芙二子『霧の彫刻』へとジャンプする。

姫路市立美術館で庭園アートプロジェクト「中谷芙二子《白い風景―原初の地球》霧の彫刻 #47769」を開催中

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000027.000073910.html

 上にあげたリンクの中で、中谷はつぎのように語る。

四方から発生する霧は、互いに出会って合流し、風に吹かれて上昇する。

霧は逆転層にぶつかると下降しはじめ、対流が始まる。

大気の中では、この大小さまざまな対流がうごめいていると言ってもよい。

対流する霧は無限に形を変え、千変万化を繰り返して消えていく。

人影が見えてくる。

霧の中で遊ぶ子どもたちが見え隠れする・・・。

子どもたちが生まれたての地球のように自由奔放に生きていけるような夢を描きたい。

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000027.000073910.html

 私はこの本を読んで真っ先に大雨の中、家を飛び出し目を瞑って、地面や身体に降りしきる雨音に耳を澄ましてみたくなったのです。

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