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(聴覚体験としてだけではなく)音楽を聴くこと、理解することについて

この記事は、2021/3/14にはてなブログで公開した記事をなるべくそのままの内容で転載したものです。
なお本記事は『ユリイカ2022年4月号 特集=hyperpop』での灰街令「Vaporwave、Distroid、hyperpop――二一世紀のネット音楽におけるgender performanceについて」という論考で批判がされています。もしよろしければ、そちらもお読みください。

かき氷の味にまつわる例の話

♨️かき氷の話してもいいですか?

👼え…?

♨️ということでこちらの記事をご覧ください。

イチゴ、メロン、レモン…かき氷のシロップはすべて同じ味 「見た目」と「ニオイ」でみんな騙されていた: J-CAST ニュース
https://www.j-cast.com/2015/07/09239857.html?p=all

👼よく話に聞く「かき氷の味、実は全部同じ」ってやつですね。

♨️記事の中の重要な部分を以下に引用します。

味の錯覚などを研究している東京大学大学院情報理工学系研究科助教の鳴海拓志さんは、かき氷シロップは着色料と香料以外ほとんど同じ原料だと話した上で、「見た目」(視覚)と「匂い」(嗅覚)が味に及ぼす影響の大きさを指摘した。

どちらかが欠けても味に大きな変化をもたらすらしく、「かき氷シロップが無色透明だと匂いを変えても、いちご味かメロン味か、レモン味かは分からないと思います」という。

脳は食べ物の「見た目」と「匂い」のマッチングで味を判断している。外国や異文化の食べ物が苦手だと感じてしまう理由は「見た目とニオイが食べる前に想像していたものとかけ離れているから」だという。

ただ、こうした仕組みはあまり知られていないようで、「(かき氷シロップの例は)講演などで話すと『今まで騙されていたのか』とショックを受ける人が多いです」と明かす。

鳴海さんは現在、「Meta Cookie」(メタクッキー)という研究にも取り組む。バタークッキーでも、チョコレートの見た目と匂いを加えれば、食べた時にチョコレートクッキーの味がすることを発見した。

すべては「脳が引き起こす錯覚」なのだという。

👼食べ物の味というと、ぼくらはどうしても舌だけで判断しているように考えがちですが、実際はそういうわけではないんだと。

佐々木正人『アフォーダンス入門』

♨️ただ、ぼくはこの記事での『すべては「脳が引き起こす錯覚」なのだ』という結論には違和感を持っていて、そこらへんについて考えを掘り下げるためにおすすめしたいのがこちらの書籍です。

『アフォーダンス入門 知性はどこに生まれるか』(佐々木 正人)|講談社
https://www.kodansha.co.jp/book/products/0000151454

👼佐々木正人『アフォーダンス入門』ですね。生態心理学者のギブソンか提唱した「アフォーダンス」についてめちゃくちゃ易しく紹介している代表的な入門書です。(全然音楽の話にならないな…)

♨️まず、アフォーダンスについて簡単に説明している箇所を引用します。(p.72~p.73)

 ギブソンの造語アフォーダンス(affordance)は、「環境が動物に提供するもの、用意したり備えたりするもの」であり、それはぼくらを取り囲んでいるところに潜んでいる意味である。ぼくら動物の行為の「リソース(資源)」になることである。動物の行為はアフォーダンスを利用することで可能になり、アフォーダンスを利用することで進化してきた。

たとえばギブソンはこんなふうにいう。

「陸地の表面がほぼ水平で、平坦で、十分な広がりをもっていて、その材質が堅いならば、その表面は(動物の身体を)支えることをアフォードする」、「我々は、それを土台、地面、あるいは床とよぶ。それは、その上に立つことができるものであり四足動物や二足動物に直立姿勢をゆるす」。つまりぼくらが地面とよぶところにあるのは「土」や「岩」という名前がつけられているが、それらは動物にとっては身体を「支持する」、その上を「移動する」などのアフォーダンスであるというわけだ。

👼そういったアフォーダンスを探り、利用するためにぼくらは眼や耳などの「知覚の器官」を発展させてきたというわけですね。

♨️そして、『アフォーダンス入門』の後半では、それら「知覚の器官」がいかに相互に関係をもち、複雑な世界の情報を獲得しているのかに焦点が当てられていきます。以下に引用します。(p.193~p.196)

視ることに音が加わったとき、視覚情報がどのように変わるのか、二〇世紀のぼくらは「サイレント・ムービー」が音つきの「トーキー」に変わることで体験した。音が加わることで、映画の視覚的構築も質的に変わったのだ。同じようなシステム間の関係の本質的な変化が新しい知覚システムの発生の時には起こっている。

人間の眼を中心とする視るシステムは、最初から今のようなシステムではなかった。耳を中心とする聴くシステムや、接触のシステムなど、他のシステムとの関係で、その働きも構造も変更してきたはずだ。

(中略)

知覚のシステムも世界にある情報の複雑さに応じて、どこまでも関係し合って変化している。知覚のための多数の器官とアフォーダンスとの関わりについて考えるとき、ぼくらはそこには個々の知覚システムが利用している情報のシンプルさをまず見てしまう。しかし炎に実際にあることは光と音と化学的放散などの複雑な関係の織物であり、炎はたとえば視覚の器官をもたない動物にとっても、やはり複雑な炎なのである。光を欠くことでその複雑さがまったく失われてしまうわけではない。

👼「炎はたとえば視覚の器官をもたない動物にとっても、やはり複雑な炎なのである」とありますが、「眼を中心とする視るシステム」にすっかり浸かりきった私たちはついそのことを見落としてしまいがちですよね。伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』『手の倫理』を読んでもそういったことを思い知らされますが…

目の見えない人は世界をどう見ているのか – 光文社
https://books.kobunsha.com/book/b10124653.html

『手の倫理』(伊藤亜紗)|講談社
https://www.kodansha.co.jp/book/products/0000345814

♨️で、ここで冒頭のかき氷の記事での結論について再考すると、あれで明らかになるのは「脳が引き起こす錯覚」ではなく、食べ物という複雑な情報を味わうときにぼくらは舌だけを頼りにしているわけではないということです。

間メディア的な芸術としての音楽

♨️以上のことを踏まえたうえで音楽をひとつのアフォーダンスだとすると、そこで起こっていることは、やはり耳という聴覚の器官だけで捉えられることよりもはるかに複雑なんだといえると思います。

👼あまり日常で考えることはない視点ですね…

♨️そういったところだと、例えばポップ・ミュージックの間メディア性に着目してシティ・ポップというジャンルについて論じた、『阪大音楽学報』16・17号合併号のモーリッツ・ソメ『ポピュラー音楽のジャンル概念における間メディア性と言説的構築——「ジャパニーズ・シティ・ポップ」を事例に——』はめちゃくちゃ面白かったですね。

また、同誌に掲載されている加藤賢『〈書評論文〉「シティ」たらしめるものは何か?:シティ・ポップ研究の現状と展望』では上の論文の内容が分かりやすく解説されています。以下に引用します。

「間メディア性」の視点を踏まえてソメは、楽曲の構造や演奏方法など「楽曲」それ自体のイーミック(emic、文化内在的)な特徴以上に、アートワークのデザインやミュージシャンのファッション、帯に書かれたキャッチコピー、広告とその掲載媒体、そして音楽ジャーナリストによる雑誌記事などといった、エティック(etic、文化外在的)な記号群の相互作用が、ポピュラー音楽のジャンル同定に強い影響を及ぼすことを指摘する。すなわち1970 年代の「シティ・ミュージック」と 1980 年代のオリジナル「シティ・ポップ(ス)」、2000 年代にディスク・ガイドや DJ たちの実践を通して再定義された「シティ・ポップ」、そして cero などに代表される 2010 年代の「ネオ・シティ・ポップ」は同一のジャンルとして、そうでなくとも地続きのファミリー・ツリーとしてこんにち強く認識されているが、楽曲それ自体だけを見れば音楽性は多種多様である。にもかかわらず「シティ」というキーワードのもと、それらが統合されている(ように理解される)のは、楽曲をとりまく視覚的、聴覚的、テキスト的記号が、外部からそれらを「シティ」の文脈へ組み入れる役割を果たしているからにほかならない。とりわけ音楽ジャーナリストによる系譜的な語り(narrative)は、その亀裂や矛盾、相違点、例外的要素などを巧みに補修し、ときに隠蔽することによって、こうした作品群を1つのジャンルへ統合する。

👼なるほど、間メディア性という視点をもつことで、音楽性がバラバラなように思えたシティ・ポップというジャンルの一貫性が見えてくるんですね。これはたしかに魅力的な視点です。

ポケットモンスター イーミック(emic、文化内在的)/エティック(etic、文化外在的)

♨️で、ここでぼくらが少し考えたいのは、例えばあるシティ・ポップの作品を聴いたときに、その作品のイーミック(emic、文化内在的)な部分と外部としてのエティック(etic、文化外在的)な部分って音楽体験としては分けられなくないですか?ということです。

👼うーん…まあたしかにそうですね…。例えば、ある曲を聴いて最初は微妙に感じていても、好きな音楽ライターのレビューを読んでから聴き返すと全く違った輝きを放って聴こえてくるということは普段からよくあります。逆にいいと思った曲もSNSで叩かれているのを読むうちにそんなによく感じられなくなったり…

♨️つまり、音楽を聴く側としてのぼくらは、イーミック(emic、文化内在的)な部分だけをエティック(etic、文化外在的)な部分から切り分けて楽しむことが原理的にできないんですよ。ぼくらがかき氷を食べるとき味覚だけで判断してると思っていても、必ず視覚と嗅覚の影響を受けてしまうのと同じです。音だけが音楽体験をアフォードしているわけではないんです。

クリストファー・スモール『ミュージッキング』

♨️で、これって逆にいうと、音楽=作品としたときに事後的にイーミテックとエティックという区分けが要請されているんだということだと思うんですよね。先ほど引用した文章では、「アートワークのデザインやミュージシャンのファッション、帯に書かれたキャッチコピー、広告とその掲載媒体、そして音楽ジャーナリストによる雑誌記事など」は、エティックな要素として外部化されていましたが、本来外に置くべきものなのか?という疑問がここで沸いてくるわけです。

👼ふうむ…

♨️そうした疑問に対して、「音楽の本質とその根本的な意味とは、対象、すなわち音楽作品のなかにあるのではまったくなく、人びとの行為の方にある。」(p.29)と説明してぼくを感動の渦に叩き込んだ著作がつぎに紹介するこちらです。

blog 水声社 » Blog Archive » 7月の新刊:ミュージッキング――音楽は〈行為〉である
http://www.suiseisha.net/blog/?p=18297

👼クリストファー・スモール『ミュージッキング 音楽は〈行為〉である』ですね。タイトルどおり、音楽の本質は作品や楽譜ではなく、それを実践する行為のほうにあるという持論が全編にわたって繰り広げられています。

♨️まず、本書の主張の基礎になるミュージッキングについての説明を引用します。(p.30~p.32)

「音楽する(ミュージッキング)」とは、どんな立場からであれ音楽的なパフォーマンスに参加することであり、これには演奏することも聴くことも、リハーサルや練習も、パフォーマンスのための素材を提供すること(つまり作曲)も、ダンスも含まれる。私たちはこれに、チケットのもぎりや、ピアノやドラムのような重たい楽器を動かすたくましい男たち、はたまた楽器をセットアップしたりサウンドチェックをするローディーたち、それから、パフォーマンスの場から人がはけた後で活躍する掃除夫を含めることすらできる。なぜなら、かれらも音楽パフォーマンスという出来事に、本来、貢献しているからだ。

(中略)

「音楽する」という動詞を使うことは、これらすべての様々な行為が一緒になって初めて、ある一つの出来事が形づくられるのだということを、私たちに思い出させてくれる。この概念的な道具を使って初めて、全体としての出来事が生み出す意味の探求を開始できるのだ。

👼なるほど、このミュージッキングという言葉を使うことで、自然とエティック(etic、文化外在的)なものも含めて音楽というものを考えられるということですね。

♨️というわけで、本書では一貫して「音楽パフォーマンスという出来事」に目が向けられていくのですが、そんな著者は音楽パフォーマンスについて次のように断言しています。(p.256~p.258)

すべての音楽パフォーマンス は、特定の歴史的状況における特定の社会集団——その規模が大きいか小さいか、支配者か被支配者か、豊かか貧しいかに関わらず——の価値を表現する。

(中略)

音楽パフォーマンスに参加するすべての人は、自分たち自身に、参加者同士に、周囲のすべての人びとに向かって、「これが私たちなのだ This is who we are」と言っているのに等しい。

(中略)

しかし同時に、「私たちが何者なのか」は、一人ひとりの「私は何者なのか who I am」という観念によっても成り立っている。そして先にも述べたように、私たちの誰もが同時にいくつもの社会集団に属しているのだから、どの(誰の)価値観を採用して、どの関係を理想とするかには、ある程度の選択の余地がある。だから、「私は何者なのか」ということは、そんなに簡単には決められない。——パフォーマンスのある文脈で個人が何者であるかは、彼/彼女が何を選択するか、自分自身がどうありたいと想像するかによっても、変わってくる。だから、「私たちは何者であるか」とは「私たちはどうつながるのか how we relate」ということに他ならない。そして、音楽パフォーマンスによって表現される関係は、実在するものというよりは、ミュージッキングの参加者がそうあって欲しいと願う関係なのだ。

👼ふむ、主張の妥当性はともかく、自分の経験に置き換えてみても思い当たる節はかなりある指摘ですね。

hyperpopというミュージッキング

♨️そこで、以上の主張を踏まえながら読んでいきたいのがこちらの記事です。

パンデミック下に狂い咲く、破壊と越境の音楽「hyperpop」とは何か?|namahoge
https://note.com/namahoge_f/n/nb757230fd013#v9IA1note.com

👼namahoge『パンデミック下に狂い咲く、破壊と越境の音楽「hyperpop」とは何か?』ですね。トラップの文法を下敷きとしながらEDMやフューチャーベースといったダンスミュージックの過剰なポップネスを吸収し、エモラップやロックのテクスチャーをも取り入れた新しい音楽シーン「hyperpop」について、盛り上がりの経緯からカテゴライズにまつわる論争まで網羅された素晴らしい記事です。

♨️なかでも今回注目したいのは、後半の「『hyperpop』のカテゴライズ闘争」と「『hyperpop』とクィアの精神」の章です。ここでは、あるプレイリストがきっかけとなって、hyperpopのジャンル化・歴史化の動きに対する批判の声が広がったことが書かれています。そして、筆者はこうした批判が起きた要因として、hyperpopアーティストの性自認に焦点を当てていきます。

 最初に言及したように、hyperpopのシーンで活躍するアーティストには、LGBTQ+に属する性自認を公言しているアーティストが多い。

本稿で紹介した中でも、fraxiom、Iguana Alana、100 gecsの一人Laura Les、osquinn、SOPHIEと多くの名が挙がるのは、決して意図的な操作ではない。クィアのアーティストがhyperpop独自の世界観を築いてきたのだ。

(中略)

手法それ自体が「hyperpop」か否かを規定するようになれば、ジェンダーレスな文脈をアンダーグラウンドに追いやって、そもそもが志向する越境性を閉じ込めることになる。

そうした事態への危惧が、ジャンル化、つまり技術的なレギュレーションを獲得することへの恐れになっているのだ。

👼なるほど、「ジャンル」だったり「歴史」だったりといったカテゴライズ自体がhyperpopがもつイデオロギーには合わないと。

♨️で、そういったカテゴライズができないときに、じゃあ結局hyperpopって何?と聞かれたら、それはあるミュージッキングにつけられた名前なんだと答えるのが一番すっきりすると思うんですよね。

👼たしかに、楽曲の構造の外の要素も含めた音楽シーンについて語るときに、ミュージッキングという言葉はとても便利に使うことができますね。音楽をよりよく理解するのに大変役立つ概念です。

♨️ひとつの音楽シーンについて考えるときにミュージッキングという視点をもつことが、楽曲の構造を捉えるのとは別の意味でその音楽性を理解することにつながる、というのはhyperpopに限らずどのジャンルにおいてもあると思います。

耳が聞こえない人は音楽をどう聴いているのか

♨️さて、ここで次に取り上げたいのがこちらの記事です。

チャンス・ザ・ラッパー、自身のツアーに手話通訳者を起用。ステージ脇でライムを通訳 (2017/06/22) 洋楽ニュース|音楽情報サイトrockinon.com(ロッキング・オン ドットコム)
https://rockinon.com/news/detail/162660

現在北アメリカ・ツアーを敢行しているチャンス・ザ・ラッパーだが、ツアーの途中から自身のパフォーマンスに手話通訳者を同行させ、話題となっている。

アメリカのフェスティバルでは参加者への指示や連絡などの際に手話通訳者がステージに登場することも少なくないという。

しかし今回のチャンスのツアーの場合には、パフォーマンスのライムの内容についての手話通訳者であり、「MTV」によるとこれは今までにほとんどなかった試みだという。

手話を担当しているのはジョージア州アトランタを拠点にする「DEAFinitely Dope(デフニトリー・ドープ)」という手話通訳グループで、特にヒップホップとR&Bの内容を聴覚障害者に伝えることを目的の一つとして活動している団体だ。

👼へえー、そういえばあんまり日本のフェスでは見かけることってないですよね、手話通訳って。

♨️ここで紹介されてるのが「DEAFinitely Dope(デフニトリー・ドープ)」っていう手話通訳グループなんですけど、試しに公式サイトを覗いてみたらA$AP Rocky『Praise The Lord (Da Shine) ft. Skepta』を手話でパフォーマンスしているMVをアップしてまして……

https://youtube.com/watch?v=uBawivtXqiU%3Ffeature%3Doembedwww.youtube.com

どう?めっちゃくちゃかっこよくないですか!?

👼かっこいいですね…

♨️ぼくらは、ここまでアフォーダンスだとか間メディアだとかミュージッキングだとかいう言葉を使い、聴覚体験としてだけではないものとして音楽を理解することについて考えを深めてきました。そこで考えたいのは、そもそも音楽って耳が聞こえる人だけの特権なのか?耳が聞こえない人は音楽をどう聴いているのか?ということです。

👼まあ、一概に耳が聞こえないといっても色んなパターンがありますけどね。

15ページ漫画「きこえにくい映画とお笑いの話」
(1~4p) pic.twitter.com/rGqqjW0mjl — 藤岡拓太郎 (@f_takutaro) 2021年3月2日

♨️いまの発言の元になったのが先ほども一度出てきた伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』です。で、この本のまえがきを読むと次のように書かれています。(p.5)

 私たちはついつい目でとらえた世界がすべてだと思い込んでしまいます。本当は、耳でとらえた世界や、手でとらえた世界もあっていいはずです。物理的には同じ物や空間でも、目でアプローチするのと、目以外の手段でアプローチするのでは、全く異なる相貌が表れてきます。けれども私たちの多くは、目に頼るあまり、そうした「世界の別の顔」を見逃しています。

視覚のことを前提に書かれた文章ですが、目を耳に、世界を音楽に置き換えてもみても通じる話だと思います。音楽=聴覚という、「器官と能力の結びつきをほぐすこと」(p.112)ではじめて見えてくる音楽の豊かさってぜったいあると思うんですよね。

👼なるほど、これからますます音楽を「聴く」のが楽しくなっていきそうです。では、今日はここらへんで……みなさん、読んでいただきありがとうございました!

👼♨️YUKEMURI LAB、次回もお楽しみに……

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